No Real :in the headphone

Normal Day in a School

 気がつくと声を発していて、自分でもその自分が発した声の大きさや内容に驚いた。それは僕にとって言うべき言葉ではなかったかもしれない。あるいは僕なんかが声を出さなくても、彼女はその強さで状況を乗り切れたかもしれない。

 その後すぐに僕に対してのそれは始まったけれど、なんだかもうどうでもよかった。彼女は「優しいね」って言ってくれたけど、あれは別に優しさからでたわけじゃない。ただあの空気や、弱い人間が心底嫌になって自然に声がでただけだ。

 彼女はその強さで、みんなと一緒に笑えない。僕はたまたま何度かその笑顔を見た事がある。綺麗だった。ただそう思った。どうして彼らがそれをするのかが僕には本当に理解できなくて、そんな彼らがある意味では本当に恐怖だった。それまで僕は考えれば何だって理解できると思っていたし、実際そうだったから。

 風になびくカーテンと、黒板にチョークがあたる音。重い空気。残像。


 そんな状況だから、僕と彼女は一緒にいる時間がだんだん長くなっていって、昼休みには屋上で、どうでもいい話をそこそこした。無口だと思っていたけれど、彼女は割と饒舌だったし、話はいつも面白かった。だから僕はますます何が問題なのかわからなくなった

 僕自身は、そんなに状況を悲観していなかった。どの視点から考えても、悪いのは彼らであって、僕らではなかったし、僕は世界をそう悪いものだとは思っていなかったから。だから、先生に堂々と事実を告げにいった時に、彼が浮かべた表情を見て、台詞を聴いて、僕は心底気分が悪くなったのだ。

 彼女にそのことを話した時、彼女は笑って「そんなものだよ」って言った。ちょっと冷静さを失っていた僕は、それで落ち着きを取り戻して、なぜだか不思議に納得し、諦めた。でも、状況はむしろ悪くなったように感じられた。助けがあると思っていたのになかったということは、自分たちでやらなければならないことになるからだ。そして彼女はむしろもう完全に諦めていた。「大丈夫」と「ごめん」って言っただけ。でも僕はどうにかしたかった。

 見下ろす世界の空気は、オレンジと青が混ざり、校庭の空気と混ざって濁っていた。


 一緒に楽しめたら、と部屋で考えたこともあったけれど、それができるなら、僕は「ごめん」なんて言われないはずだっただろう。

 結局いつからか彼女とは会えなくなって、それからの行方はわからない。いなくなったと気付いた時から一ヶ月ぐらいの記憶がもうないのだ。何があったのかよくわからない。今も。

 間もなく僕は転校してしまったから、その学校の後の事はわからない。たぶん彼らは今もどこかで生きていて、多かれ少なかれそのときと同じ事をしているのだろう。


 転校先の学校の屋上に一度でたけれど、僕は何も感じなかった。風がゆるくふいて、遠くから雨の臭いがする。それだけだった。

Dead Man

 いくらかぼやけて見える。いくらかはっきりして見える。でもそれが何なのかはわからない。

 やがて空は白い光を放ち、青い粒子が世界を覆う。

 部屋にその青い粒子が舞い込む昼前に僕は起床し、閉め忘れた灰色のカーテンをひく。何も感じない。僕にとってのただの朝だ。

 外に出るのがいつのまにか嫌になった。僕だけ必死だった。努力をしない誰かは悠々と今幸せに生きているのだろう。望んだものが手に入らないことを今は知っている。高校のときに気付いた。

 町中の空気が大嫌いだ。汚い空気、声、臭い。そこでは青い粒子が薄くて、呼吸がつらい。少しまえまではどうにかやっていたけれど、だんだん弱くなっていくようだ。

 寒さで白い霧が現れ、光に照らされてきらきら。

 生きているだけでいい。生きて何かを考えていたい。それだけでいい。誰もいらない。関係もいらない。部屋で独り死んだふりをしている。食事はとらなくても生きていける。どうやら僕には水さえもなくていい。僕は考えて生きている。

No Title /st

 誰も君のことなんて救ってくれないよって、空が私に声をかけて、それでも私は雲に向かって右手を強く伸ばして、どうにかして掴めないかと考えてしまう。

 眼を閉じればぼやけた思い出が青い空をくすませる。眼を開けてももう、そこには何もない。風がゆるく吹いている。穏やかだ。今、私は幸せだ。でも、明日を私は望まない。

 今、空中にぽっかり穴があいて、その黒い円に私の手が吸い込まれる。ただ消えて行くように、この風のなかで、誰も見ていないうちに、身体のすべてがそのなかへ。

Know Know Nothing

 遠くの方に煙が見えて、森が燃えているのがわかる。火をつけた馬鹿がいるのだろう。ぎゃあぎゃあという声がして、山賊が誰かを追いつめ殺している。僕は彼らに今日は感謝をすることにした。木の燃える臭いは好きになれない。

 間もなく雲行きが怪しくなり、空は森の火を消す。ポツ、ポツ、と肌に感じたとき、僕はねぐらに戻る。今日はこの木にとまろう。


 前の街の広場で、詩人が悲しい歌を歌って警察に捕まっていた。あの詩人はよく捕まっていると近くの露天のおばさんが言っていた。僕には彼が何をしたいのかがわからない。そして警察が何をしたいのかもわからない。彼の歌はそう悪くはなかった。

 時計塔に上って街を見下ろしてみたが、あまりにも平和だった。日が落ちて電灯が灯ると次第に声が少なくなる。その日はそのまま時計塔で一夜を過ごした。


 あまり長くは移動できない。僕には生のこの身体しかない。ときどき食料を探し、ときどき長く移動する。どこに行くわけではない。特に目的はない。

 表面が気持ちいい木は、その性格も柔らかで紳士だ。


 空を飛べないあの人間たちは、あまりに哀れだ、と僕は思う。彼ら人間たちは人間同士でしかコミュニケーションをはかれず、しかし一番優れているのは自分たちだと信じているのだそうだ。よくわからないものだ。

 泣いている少年の周りで笑っている子供たちは、何を考えていたのだろうか。僕にはまだわからないことが多すぎ、人間を理解するに至っていない。

Glitters in the Air

 眩しくて眼を閉じた。次に眼を開けて、私が見たのはどこだかわからない場所。森の中の少し開けた場所で、ところどころに小さな花が咲いて、空気中にはきらきらとした輝きが漂っていた。

 なぜだか嬉しくて、手を伸ばしてその輝きに私は触れようとするけれど、空気が邪魔をして、なかなか触れられなかった。しばらく試して、一つ捕まえたけれど、それはもう輝きを失って、崩れて空気の中に消えてしまった。

 たくさんのそんな輝きの中で私は独り。

 降り注ぐ太陽の光と、その輝きの温かさは気持ちよかったけれど、もう嬉しいとは感じなかった。

 そうしたら、涙が溢れてきて、頬を伝って緑色の草に落ちる。私の周りに輝きが舞い上がって、それが空に昇っていく。私はだんだん何も感じなくなって、この中に、消えてしまう。でもきっと、みんな同じなんだ。

Bottle of Tear

「綺麗な顔が台無しですよ」

 大きなハンカチを差し出してくれた。私が受け取らないから、大きな手で眼と鼻をぬぐってくれて、顔を覗き込むんだ。

「ちょっと待ってくださいね」

 覗き込んだ眼が一度閉じられた。もう一度開くと透明度が増して、どこまでも吸い込まれそうな眼だった。その人は私の手をとって、少し力を込める。

 少したつとまた眼が閉じられて、元に戻る。柔らかで、近くを、私を見てくれる眼だ。

「気分はどうですか?」

 ちょっと唐突な質問で、私は驚く。いつのまにかすごく晴れやかな気分で、周りを見ると世界が広くなったように感じる。耳は風と遠くの喧噪を取り込み、眼はオレンジの光に染まった屋上をはっきりととらえてる。

「なんだか、すっきりました」って私はようやく答える。

 その人はまた少し笑って、液体が入った小瓶を掲げてちょっと振る。

「これがあなたの悲しみですよ。また何かあったら呼んでください。すぐにきますから」

 瓶を私に握らせて、振り返って消えてしまう。瓶の中の液体は透き通ってかすかに青く、よく晴れた日の空の色みたいだった。コルクの栓がまだ温かくて、冷たい手には気持ちいい。

 もう一度周りを見て、オレンジ色に染まった風を感じる。忘れないように、瓶は机の引き出しの右奥に入れておこうと思った。

My Proof

 屋上から見る校庭。運動部と、その中にいるクラスメイト。私に気付かない。平和な空。少し寒い。

 今日も授業にでないで図書室にいた。授業中の図書室は、誰もいなくて、落ち着く。紙の臭いと、淀んだ空気。なんとなく手に取った本を一冊読み終えて、屋上に出たら青とオレンジのグラデーション。遠くまで。

 教室に私の席がないから、少し前からこうしているんだ。先生は何も言わないよ。私が言ったって、無駄だったんだ。私の担任は体育教師。校庭にいる。嫌だ。嫌だ。

 でも一度生徒指導室に呼ばれた。「授業にでないのはなんでだ?」だって、笑ってしまう。適当に答えて、その日も屋上にでた。今よりも少し濃いグラデーション。

 どうすればよかったか、なんて今更考えたって無駄だから、これからどうしようなんて考えるけれど、全然わからない。学校を出たら変わるのかなって、誰かに訊きたいけれど、空だってそんなに暇じゃないんだ。

 立ち上がってスカートをはたいて、フェンスを握ってみる。触った部分が黒くなって、汚れてしまった。

 眼を閉じて風の音を聴いていると、嫌でも校庭の音がする。また眼を開ける。私のいるげんじつ。冷たい風の歌。

 汚れた手を、空色のハンカチでなぞって拭く。手から汚れが落ちたって、ハンカチが汚れてしまう。ちょっと後悔する。

 後ろから音がして、誰かが屋上に入ってくる。変な人。でも柔らかい。

「はじめまして」といってお辞儀をして、「お迎えにあがりました」って私の手を待つ。

 そっか、そっか、なんて思って、私はその手をとって、ダンス、ダンス。

 昇っていく。空へ、グラデーションの中へ。その境目を通って、新しい世界へ。

Still Alive

 これでも生きてる。まだ生きてる。

 あるいは私がずっと考えていた事。ねぇ、苦しくなったら死ねばいいんだよ。そこで全てが終わって、命は自然に還る。そこでそうしているなら、まだ死んでない。生きている。

 見ている全ては私の内側からでてきているものだ。

「私がだれかわかる?」

 って誰かが言ったんだ。彼女は確か眼鏡をかけていた。


 美術の先生が好きだったかもしれない。五十歳ぐらいの白髪が混ざったおじさんだった。芸術に感動できない、なんて話を友達としていた。

「まだ、そういう作品に出会っていないだけだな」

 と言って、画集に納められた一つの絵と、卒業生の一人が描いたという絵を見せてくれた。

 あの先生もまた、眼鏡をかけていた。


 眼鏡の奥の透き通った眼の、もっと奥だ。脳を抜けて、意識を抜けて、無意識も抜けて、広大な宇宙がある。そこで私たちは互いに干渉しあって、存在している。そこには形がなく、概念というほどの概念もなく、おそらくそれは化学反応のようなものだ。

 私たちが見るもの、見せるもの。そんな広大な宇宙から、いくつか何かをとりだして、組み合わせて列にして眼に映す。何を選ぶか? 私が見たいもの、誰かが見たいもの。強く望め。

Continuation

 私にストーリーなんてない。私は現実に住んでいる。物語は無責任だ。全ては終わりがあって、終わるときに美しければいい。でも現実は違う。生きたまま終わらせる事は出来ない。

 悲しい話と、楽しい話をたくさん読んだ。どちらも美しくて、自分の汚さがよくわかる。それが物語だとしても、世界にはその物語を実践している人はいる。そんなことないって? 違うよ。私が昔そうだったんだ。

 ストーリーの終わりなんてないと思っていたけれど、その美しい物語の範囲が終わって現実に降りてきた時、美しい全てが消え去った。そして残ったのは、その物語に対する支払いと、これから先にそんなことが二度とないことへの理解だった。

 時々すごく幸せな夢を見て、それがかつての物語であることを起きてから気付く。いくらか切って貼られた記憶だよ。

 桜が咲く季節に、綺麗だねって私が笑って、それに答える人がいる。どしゃぶりの雨の日に笑いながら帰る私がいる。教室のカーテンが揺れて青空が見える。屋上から校庭を見渡すと、部活をやっている人が見える。階段を一番下まで降りると、放送室のランプがついている。職員室に入るときに「失礼します」なんて言う。部活の届け出をだして、準備をして、そのために遅くまでのこって、いろんなことを話す。掃除をする。掃除をする時に誰か先生の真似をする。朝起きて早く学校に行く。はやいねって、誰かが言う。君だってはやいのに。放課後残っていると早く帰れと言われる。夕日がさしこんで机が焼ける。

 もうない。でも眼を閉じて、それがずっと、ずっと続く。

Flying Book

 手を離した風船が空に消えるのを見ていた。途中で紙飛行機が遥か上空で飛んでいるのを見つけて、群れた本たちが冬を越すためにわたっていくのが見えた。

 英語の授業を抜け出してきた駅前は、目が空ろな人々がたくさんいて楽しくない。メガネ、ヘッドフォン、腕時計、黒い外套、そんなものみんなとってしまえば、みんな同じだ。

 誰かが立ち止まる。小学生ぐらいの女の子だった。意思が強そうな眼で僕を見ていた。眼を離すといけないと思って、僕もずっと眼を見ていた。そして小さな手が伸ばされ……消える。

 僕もあの本みたいに、冬を越すために他の場所に行かないといけないはずなのに、どこに行けばいいかわからないし、どうやって行けばいいかわからなかった。

What is in the Bucket.

 悲しみの入ったバケツを覗き込むと、自分の顔がはっきり見えた。バケツはどこまでも深く、黒く、あるいは青く、静かだった。

 向こうの世界の僕がちょっと笑って、手を伸ばしてきた。それを僕は握って、向こうの世界に引き込まれる。バケツに入る時、少しひやっとした感覚が全身を覆い、しかしすぐにそれにも慣れて、深く深くへもぐっていく。

 どこまで行っても黒いのかと思えば、何十分も先まで潜ったとき、唐突に視界が開け、なにもかもの気持ちがふっとんだ。いつのまにかやたら青くて雲もない空の下に僕は立っていて、目を閉じて風のノイズを聴いていたことに気付く。

 特別な事は何もなく、ただ三つ数えてひっくりかえる世界で、ただ僕は砂時計をひっくりがすのを繰り替えしている。

Cry Aloud

 大きな声で叫べないあの子は助けを呼べなくて死んでしまった。すごく晴れた日の朝で、見上げれば吸い込まれそうな空の日だった。あの子の本当の考えや、本当の気持ちを誰も知らず、その子はそんな感情を隠して生きていた。

 時々困った顔をしていたって、誰かに相談しようともしない。冷たい瞳でカーテンの隙間の空を見ているときは悲しいことがあったときだったらしい。そんなことにも気付けずに、日は廻っていった。

 でも僕の中には、そんなあの子の生きている未来があって、そして僕は新しい世界を作る事が出来る。まぶたの裏に映る風景を世界に移して、その物語を紡ぐ世界が生まれる。誰かが言った言葉を忘れて、僕はまたその瞬間に笑顔でいるだろう。

A Boy and Girl on Falling Spiral Staircase

 少しずつ階段を上っていってるつもりだけど、それって階段が止まっていることを前提にしているよねって彼女は言って、そんな視野が狭い上り方なんてしたくないって笑った。

 そんな彼女は雨の日に事故で死んでしまった。僕は友人伝いにその話を聞いて、なんてあっけないんだろうと思った。

 そういうことを思い出していた昨日は、気付けば思い出の中の彼女の台詞の直後だった。彼女は何故か驚いた顔をしてまた笑って、「何万回も泣いて、たった一回笑えるのが嬉しい」って言った。

 互いに戻った時間の中で、つじつまをあわせながら生きてきた僕らが、やっとここで笑えて、未来で失くしたものを取り戻した。冷たい雨の日ももうない。ここで永遠は終わったから、悲しいことを引き出しに大事に締まって、鍵をかけた。

The Rained Day

 始まりが何時だったかをさかのぼってみれば、結局のところ僕が生まれた時、ということになるだろうか。気付いたときに、僕は全てが間違った世界に独りでいて、その全てを正しくすることを考えていた。誰かが僕のことを頭のおかしいやつだと言うのを聞いた。それはきっとこの世界では間違いではなく、それ故に僕は全てを正しくしなければならなかった。

 そして、初めて見た景色を思い出すと、僕の視界は一度暗転し、その景色を映し出した。雨の日、雨の匂い。庭の傘、打ち付ける雨の音。僕はまたそこに立って、記憶はまだそのままだった。記憶の中の過去の景色と、僕が見ている景色の全ては同じだった。ただ事実としてそこにあって、僕の記憶に新しく積み上がる今の景色は、その記憶によって形を少しずつ変えていく。

 どうすれば正しくなるのかを、全てがうまくいく方法を、考えなくてはいけなかった。何が間違っていたか、どこで間違ったのかを考えなければならかった。それは僕が僕自身で全てを考え導き、正す必要があることだった。誰も僕の味方はいない。祈るのなら神様がいるだろうけれど、生憎にも記憶は神様なんていないことを知っていた。

 僕は眼をつぶり、雨の音をよく聴く。

 気付いた事は、こうして雨の音を聴いたのが一度ではなかったことだ。このことさえも、もう何度目かわからない。

 何度やっても、どう動かしても、結局全てはうまくいかなかった。そして全てのケースで僕は救われず、他に誰が救われないかが変化するのみだ。今更何ができるのだろうか。何度の自己暗示で超えた時で、僕はただ主観的に年をとり、そろそろ寿命なのかもしれない。

 なんだか疲れてしまった。今なら雨の音が美しく、このまま眠れそうだ。だからそうだ。この音が美しいと感じるうちに、寝てしまおうか。

Turn

 あるきっかけで、忘れていた言葉を思い出した。きっかけで思い出したと言っても、すぐに思い出したわけじゃない。きっかけ自体はささいな(本当にささいな)ことだった。それは自分の状況をよく考えていた時、唐突に頭に響いたのだ。

 その日は夏から秋へと変わる不安定な時期のある日で、霧雨が降って外は肌寒かった。僕はいつものように学校へ行こうと電車に乗り、吊り革に掴まって立っていた。そこそこ混んでおり、もうすこし都心に近くなれば満員電車になるだろうという感じの車内だった。

 二駅めでドアが開いた時、中年のちょっと太ったサラリーマンが乗って来た。ドアの近くの吊り革にいた僕は、軽く彼にぶつかった。よくあることだ。別に誰も気にしはしない……と思ったのだけど、甘かった。

「邪魔なんだよ。まったく」

 とそのサラリーマンははっきり言った。

 僕は正直何があったのか、一瞬全く理解できなかった。なぜ今ここで、混んだ車内で、心臓ぐらいしか大きく動いていない僕が、ぶつかられたサラリーマンに怒られるのか。しかしとっさに僕は

「すいません」

 と謝ってしまったのだ。

 僕は結局次の駅で降り、次の電車を待った。そしてその待っている時間にいろいろ考えた。どうすればその状況を回避することができたんだろうとか、あのサラリーマンが何を考えていたかとかいうこと。でも何もわからなかった。霧雨で肌寒い中、ベンチに座ってホームのコンクリートの汚れを見ていただけだった。なぜだか手は固く握られ、それを動かすことがどうしてもできなかった。

 そのホームで、僕以外の誰もが他人だった。何かを誰かに話したかったけれど、話せる人なんていなかった。それをまた考えていたらふと笑ってしまった。ホームの人に限らずとも、僕にそんなよくわからないことを話せる人なんていないことに気付いたからだ。家にも、学校にも、どこにも。

 結局次の電車が来たことに気付かず、その次の電車に乗って最寄り駅で降りた。

 そして改札を出て、霧雨に包まれながら歩いているとき、その言葉は響いた。

「掴むものがないと爪が食い込んで痛いわ」

 正直な話、どんな文脈でその言葉を聞いたのさえよく思い出せなかった。ただその声が、言葉が響いて、僕の心を空っぽにした。意味が保留されていた言葉が、一瞬で心の奥まで届き、意味をもって心の空気を吸い込んだ。

 何もないなんてことを、手のひらの痛さとその言葉が、明確に、直感的に僕に知らしめ気付かせた。そして気付いた僕は掴むものが欲しかった。何でもよかった。だから、霧雨がうっすらと湿り気を残すだけで形にならず、雲を掴もうとした手が何も掴まなかったりしても、それを少しの間繰り返した。

The Superficial Brave Girl in Hell

 姉さんがいなくなってから、もう一年か。なんだかすごく慌ただしい一年だったようにも感じる。でもそんな中思い出す一期間を切り取ってみれば、すごくゆったりとした一年だったようにも感じる。

 少し僕の姉について話をしようと思う。姉はたぶん誰からの第一印象でも「明るい人」とされるほど、活発で輝かしい人だった。そして僕の面倒をよく見てくれる姉だった。小学生のときの姉は姉の友達と積極的に遊ぶというより、僕らの友達に混ざっていることが多かったと思う。中学に入ったあたりで、そういう事もさすがになくなってしまったけれど。

 姉はすごく優等生だったように思う。僕が高校に無事に入れたのは、ほとんど姉のおかげだ。小学生のころからずっと勉強を教えてもらっていたし、しかもその教え方がうまく、質問への答えもいつも適切だった。といっても質問するほどの疑問がでるまえに、先回りして説明してくれていたから、殆ど質問なんてしたことがない。

 確か部活動は美術部だったかな。人物を美しく絵にするのが得意だったと思う。何度か僕も似顔絵を描いてもらったけど、どう見ても本当の僕の二倍いい顔をしていた。ちょっと悔しいのでその絵はもらわなかった。今思えばもらっておけばよかったなって思う。次いつ描いてもらえるかわからないのだし……


 そんな姉もときどき、自分の部屋に閉じこもって、すごく静かにしていることがあった。たぶん高校二年ぐらいからだったと思う。勉強しているのかと最初は思ったのだけれど、どうもそういう様子でもない気がした。なんだかこう、あまりに静かで、「ただそこにいる」ぐらいしか感じなかったから。それについて僕は気になってはいたけれど、そのときのドアがあまりに大きくて、どうしても開けて入ることができなかったし、声をかけることも思いつきもしなかった。

 そんなこんなで、姉は高校三年の秋にこつ然と消えてしまった。その日も部屋にこもっていて、すごく静かにしていたから、正確に何時消えてしまったのかはわからない。気付いた僕は小さくなったドアを開けて、誰もいない部屋を隅々まで探した。ベッドの下。本棚の中や奥。テレビの裏。場所の関係で部屋に置かれた洗濯機。

 静かな部屋で、洗濯機の蓋だけが完全に、ただぽっかりと口を開けていた。僕がそれを覗き込むと、何もないドラムが洗剤の匂いを出していた。

 普段と違うところがそれまでにあったか、なんて全然分からない。よくよく考えてみれば、僕は姉のことなんて、それほど多く知っていなかったように思える。姉の好きな食べ物ってなんだっけ? なんで絵を描き始めたんだっけ? 趣味って絵以外に何かあったのか?

「洗濯機ってどこに繋がってるんだろうね」

 なんて、一度訊かれたことがあったな。このときからもう、変化が始まっていたのだろうか。それともずっと前からだろうか。姉はいつからそうなったのだろう。なんでそうなったのだろう。気になりだすと止まらない。果たしてどうやってその答えを探せばいいのだろうと、一年間考えた。結局、最初に感じた違和感と、いつかの言葉を、繋ぎ合わせて実行するしかないんだろうな。

 だから僕は今日、この部屋にいて、たぶん訪れるであろうそのときを待っている。これが正しいことかはわからない。誰にとって幸せなのかもわからない。でも、それが口を開けて、たぶん姉がいる場所につれてってくれるのを僕は望む。

Dancing, 10:00 PM

 十時ぐらいに散歩に出て、公園で彼女を見かけたよ。薄暗く照らされた薄い芝生の上で、彼女は踊っていたんだ。その芝生が小さなステージに見えて、少し見とれた。

 彼女が僕に気付いて、「私っておかしいでしょ? たまに無性にここに来て踊りたくなるの」と、踊りながら言った。僕は少しまた見とれてから「同じだよ」と答えた。

 どれぐらい時間が立ったかわからない。公園のそんなに高くもない木の葉がこすれ合う音と彼女の静かなステップ。ずっと続く

A new world

「見て! ほら」

 彼女の楽しげで、良いものを見つけたような声で、僕は眼を開いた。一瞬の眩しさのあと、緑色の風景が、さきほどから感じていた緑色の風で穏やかに揺れていて、春になりかけの日を演出していた。その中で彼女は冷たさ混じる風に髪をなびかせ風景にとけ込み、それを見ていると、僕自身さえ、なんだかそんな全てに含まれているような感覚になった。

 ここだけが世界で、ただ穏やかで、きっと天国というものがあるなら、こういうものなのかもしれないと思うような。日々感じていたはずの胸の下の毒は消え去って、変わりにその緑色の風が体中の血管を駆け巡り、満たしていた。時々見える黄色に何故だか笑いたくなり、眼をまた閉じれば残像とともにさらさらとした音が心地よく、風の匂いは青かった。

 手を広げて寝転がった彼女を見て、真似をしてみる。腕にあたる草はひんやりとしていた。雲がゆるく動いているのに見とれ、肩の力も抜けてしまった。少しそうやってとどまっていれば、太陽が体を焼いて、眠くなってくる。

「ずっとこうしていられればいいのにね」

 そんな言葉を最後に聞いて、また暗闇に落ちていく。

world.delete(self)

今日電車にのっていて、隣のホームに降りるたくさんの人を見ていたよ。あの人たちのどれだけが、いらない人だろうって。

Gall in Girl

 胸の底からじわじわ浮かんでくる汚いものが肺までせまってくるんだ。私は最近、これが楽しくてしかたない。遠足行く前の日のドキドキと、この汚い気持ちは、きっと同じだ。

 ずっとこの気持ちを忘れないように、しっかりメモ用紙を汚すんだ。でもメモ用紙を汚した分だけ、自分のものは失われてしまうんだ。また思い出せるように、地に足がついた感じを忘れないように。

 誰かが私をおかしいやつだと云うんだ。でもいいんだ。ずっともう、そんな人たちとは違う世界にいるのだから。

 私はずっともう独りで、ちゃんと生きていく。ちゃんと。

A Morning

 しかたないから起きるんだ。そうしないと、みんなに怒られるから。死んでいいって言われるから。でも最近思うんだ。別に死んだフリでも、生きていればいいんじゃないかって。

 誰も僕の相手をしなくなったよ。「十分オトナになった」って、どこを見て判断したんだろうね。このままで僕がどうなるのか、僕は知っているよ。すごくリアルに想像できるんだ。

 高校生のときも、しかたないから家では起きたフリをしていたよ。でも学校では死んだフリをしていたんだ。いつか誰かが起こしてくれると信じてさ。そのときもみんな、僕を見ていなかったよ。身体が透明だったのかもしれないね。それをまた繰り返す。

 でも、うまく繰り返せないんだ。中途半端に僕が見る世界が広くなって、中途半端に僕を見ている人がいるから。ちゃんと透明人間になれないんだね。

 時々通学路で見る鮮やかな青だけを、今も綺麗だと覚えている。それ以外に何を見ていればよかったんだろうね。

 いつになったらこの遊びが終わるのかなんて、よく考えるよ。その気になればすぐにでもやめられるのに、僕は既に自分の考えていることすらよくわからないね。

Your Empty Surface

「ごめんなさい」

 上っ面らのそんな言葉で、そいつはまた逃げに走る。その言葉で、責任が降りると思っているんだろう。確か昔のクラスメイトにそんなやつがいたな。そいつのことをふと思い出した。優等生ぶって、「ごめんなさい」だけをしっかりするやつだ。俺はそいつが大嫌いだった。心の伴わない言葉ほど、汚いものはないと思っている。

 「思っていることを全て言ってはいけない」と、昔のクラスメイトが言っていた。そいつのことを俺はひそかに尊敬していた。人に対して絶対に偏見を持たないやつだった。アイデアが溢れていて、相手の感情をうまくコントロールして、いい方向に導いていけるやつだった。そいつは今はもういないんだけど。

 祭の日の騒々しさを覚えているが、祭が楽しかった思い出はない。ちょっと噛んだだけで味が無くなるガムがあるだろう。そんなものが全部嫌いだ。

Foolish

 想像力がない人が、僕の逃げ道を塞ぐ。想像力のない人が、僕の話を聴かない。今なら彼があの時なぜそういったのか理解できるよ。自分以外が本当に何の役にも立たず、自分以外は他人のことを考えないこと、自分の想像力と、孤独を強くすることの重要さだったんだね。

 例えばあの時僕が、彼女に言葉をあげられたら、僕は救われただろうか? しかしたぶんそれでは彼女は救われなかっただろう。僕は、僕自身がいかに役に立たないかを知っている。それと同時に、僕は、僕がどの程度までのことができるか知っている。例えばあの時僕が、彼に意見をすることはできただろうか? しかし主導権は彼だったのだから、意味のない言い争いになり、迅速性が失われることになっただろう。

 想像力のない人が街を歩き回り、想像力のない人が世界をつくり、想像力がある人が排除されて、死んでいく。

 何が残酷かを君はわかるだろうか。たぶんわからない。

 想像力のある人たちを救えるだろうか? しかし救うためには位置が重要だ。その位置を得るために、自分の想像力を失くしたら、想像力のある人の気持ちを想像できないだろう。想像力のある人は絶対に救われない。幸せになれない。

Somebody Said

 誰かが言っていたことを、最近たくさん思い出す。誰が言っていたのか全然わからない。覚えていない。ただ、誰かの言葉だけが美しく水面に浮かび上がっては、また底に落ちていく。

 うん。そうだね、誰かが言ってたよ。

「無駄な文章を書いて、いくらか欠けた何かを取り戻そうとするんだろう。何が問題なのかは明白さ。その欠けた感情をプールさせておく領域が少ないことが問題なのさ。しっかりその感情を溜めて、凝縮して、液体にしてあげないといけない。十分な量の液体になったら、ビンにつめて蓋をするのさ。そうやってはじめて、作品が生まれるんだよ。」

Part of Routine

 何の話のなりゆきだったかは忘れたけれど、友達の女の子を家に招いて食事を出したことがあった。別に料理に自信があったとかで招いたわけじゃない。ホントに、今になってはなんでそうなったか分からない。ただ、そんな中でした会話がちょっと印象に残った。

「おいしいねこれ」

「ん、ほんとうに?」

「うん。本当に。久しぶりにこういうの食べたかな。なんていうんだろう、味わって食べる、みたいのさえ久しぶり」

「そっか。独りだからさ、自分で、これはうまいんじゃないかって思っても、本当にうまいのか分かんなかったんだよね。自分の舌がだんだんおかしくなってる気がしてさ」

 これだけしか覚えてない。そして彼女は食べ終わったらすぐに礼を言って、満足そうな顔で帰っていった。

 印象に残って覚えていたのは、単純に嬉しかったから、というのが大半だろう。でもたぶん、それだけじゃなかったと今は思う

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